December 07, 2014

怖い

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釣のために谿沢へわけ入るときも 
山登りのために薄暗い植林の林へと入り込んで行くときも
その入り口が ”怖い”


とにかく何処かへ行こうと計画しているときから
テーブルの上に置いた地形図の端っこを指でなぞっているときから
一人で此処から入山するのはちょっとおっかねえなあ なんて考えてはブルっている

そのブルっがどこからやってくるのかというと

例えばソコが知った場所だったとする
あそこは薄暗くて、、、、今時分だときっと雑草が背丈もあって、、、、
どうするあの藪抜けたら何か居たりしたら とか

逆にはじめての場所や はいり口を変えたりしたとする
すると今度は どうなの? 降りれんの? あすこ踏み込んだとたんに落ちたりしない?
熊とかうじゃうじゃしてたりして、、、見たことないけど、、、、
なんてのが主な心配事なわけで、、、

まあ あまりそういった事にかんして気にしない方からしたら ただ単に意気地がねえなと思われるだろう
だけどそんな他愛のない事がワタシにしらたちょっとした恐れの対象であったりする
なので怖いものは怖いので コレばっかりはどうしようもないんだな

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それでも山へは行くし釣にも行く

当地に着いて いよいよ仕度が出来あがっても その恐怖感は消えないんだけど
ここまで来て引き返せないだろうみたいな そんな思いだけでその先の茂みへと足を運んでいる

 「大げさだな」 と言われようともこれが真実
愉しい休日を過ごすにあたって 取りあえずそんな ”恐怖の門” をいかにくぐるりぬけるか
それがいつも問題なんだ


何度も言うけどホントに怖がりだ
なので山中や峪沢でタープ一枚で野営しようか なんて事になると
もうこれは事前に相当に念入りな心の整理が必要になる

”こなん薄っぺらなナイロンが二枚あろうが一枚だろうが大差ないよね” とかさんざん自分に言い聞かせたりね

でも怖がりだというだけで 野山での危険度が他の人よりも増すということは無い
それどころか その屁たれ加減が功をそうして 綱渡りながらもここまで無事に来られているような気がする
だから怖がりも捨てたもんじゃないのだといつもそう自分に言い聞かせ
そしてナダメたりしている


Uターン場所の出現

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”この先Uターン場所あり” と書かれた看板が山中や通らずの廊下に掲げられている事はないけど
ある種のモヤモヤ感*が 頭の中にふってあるメモリの赤線のとこまで満ちてくると 
その看板みたいなモノが突然現れる
* 不気味感やオドロオドロシさの他に気象の荒れ具合等によって起こる不安な気持)

恐らく わずかに稼動している脳のまたわずかな部分から指令が下ると同時に (スイッチが切れる いや入る?)
額の裏に格納されたモニターへ映し出されるようだ (たまにルームミラーがモニタになってる車があるけど ちょっとあんな感じかもしれない)
そしてそれには音声も付いていて 優しい語りが聞こえる ”ねえ帰ろうよ” て一言だけの

それはホントにやさしくて 決して命令口調なんかではない

とにかくやんわりと ねえねえ もういいんじゃない みたいな感じなんだな
実のところ それは自分が誰かにそう言ってもらいたいからなんだろうけど
それを 見えない誰かに提案されたって事にして 体よくその場から逃げる為の口実にするのである

とにかく そんな嫌ぁな気持が満ちてしまったりしたら
そん時は そんなふんわりとした思いやりに満ちた言葉で優しく包んでもらうのだ

すると 可也の確立でボクはそのおもひやりに素直に従うのである
もう一切の抵抗も無く従順に




でね このとき ”なら帰ろうかなぁ” とソラに返事を返するんだけど
実にコレが そうするコトが大切なんだ
そうすることで ちょっと残っていた悔しさみたいなモノも消えて ほんとに穏やかなココロもちのまま引き返す事が出来たりするんだよね


まあこれらのほとんどは 薄ら気味の悪い深峪の通らずなんかで起こる現象なので
ほとんどが釣をしてるときに起こる現象なんだけど
それでもたまに山を歩いている時にそんな思いに苛まれる事もある
でも まあ大体は 冷たくて寂しい峪沢の流れを一人で遡行している時だよね

そうそう山での場合
天気が怪しくなってきて その影響からなんとも不気味な雰囲気になる事があるのも確かで
もちろんそんなときは この ”帰ろう指令” を今か今かと心待ちにしたりもする
ただ待っても待ってもお声が掛からない
声も掛からないし いつの間にか不安だった事さえ忘れていたりする
結局はその場で自分が感じているほどの危ない雰囲気にはなって無かったってことなんだろうけど

そういうのがちょっと不思議だよね
そんな時にも優しいアナウンスが ”大丈夫10ミーター先展望ひらけます” とか言ってくれると助かるよね
余計な心配しなくて済むし

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じゃあ引き返しのスイッチが入る時のソレなんだけど
ソレは例のゲージがどのくらい何処を越えたらスイッチが切れるかかって事なんだよね

だけどこれが数値で示せと言われると可也難しいときてる

なるべく判りやすく説明するのには vdo の回転計を思い浮かべてもらえるといいかもしれない
(此処ではドイツ製スポーツカーに付いてるレヴカウンターをイメージ)
あれの 6000回転くらいから先に赤くなってるゾーンがあるんだけど
(現代のスポーツカーが果たして何回転するのかしらないけど 此処では80年代前後をイメージ)
その所謂レッドゾーンにどれくらい留まれるのかっ 
どのぐらい此処で堪えられるかってのがその日を左右するのだ
(違うかな まあいいか)
だから そう考えると結構頑張った末にソレが現れるような感覚にも思えるんだけど、、、。

ただ時として 既にコレが 1000回転超えた先が真っ赤なゾーンになってる事もあるから
ひょっとするとソレはその日の気弱加減によっても変わってくるようだ

要は ”オレ 今日はどうもダメな感じ、、、” という日には はなっから赤い域が9割を占めているって事なんだ

あの不安な心もちに支配されてしまうのは 精神面が弱ってるって事なのかもしれない
遊びに精神もヘッタクレモ無いと思うけど
結局は その ”遊びのやる気” みたいなもんが足りないんだろうね
日頃から仕事もろくにしてないのに 遊ぶ気も半端なのはちょっと戴けない気もするけど
たぶんそんなときは きっとそうなんだと思う


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回転計が赤い域に入ったままで一定時間が過ぎると いよいよあのUターン場所が現れる

山ならば頂上へ行かずにここで戻る訳なんだけど
度々こんな場面でUターンした時なんかに「ここで敗退」とかっていう人もいる
だけども あれだよね 別にだれとも戦っているわけでもないんだから
”負けた” みたな言い方するのって ちょっと変な感じだよね

仮にね ”行けてあたり前” だって事にしてみるとするじゃない
そうなると こんどは一体いつ勝てるのかさえ判らなくなっちゃう
で 時に怖くなったり または嵐が迫ってきたりする事だってあるんだから 当然負けが込んでくるわけで
(いけたら勝ちなのかな? でも勝ったっていうのも聞かないよね)

これはもう そうなってくると 金輪際 一生挽回できずに終わるってことになるわけなんだよね

いやいや、、「それは言葉のあやだ」とかいわれるのは判ってるけど 
それにしてもこの場合のソノ ”あや” の使用方法というのは如何なものかと 
何時だってそう感じてしまうのはワタシのココロが狭いからだろうか

ついでだから言うけど 例の「敗退場所」へ再び向かうときに今度は「リベンジ」とかいうよね
それについてもまったく同じで
個人的には復讐や報復の為に山へ入ったりさかな釣へ行ったりした事は一度もない
なんど同じとこへ行こうが それについて ボクの場合は単なる ”通い” となるわけで
じゃあ なんで通うかというと それは愉しいから通ってるんだよね

間違っても
今度こそアソコノ淵のやまめをブチノメシテやろうとか
あの笹原の先の松の木が邪魔だからぶった切ってやろうか
なんて事など 今まで一度も考えたことも無いし 今後もそうはならないだろうと思う

だからまた此処でも深く考え込んでしまうのですよ
”はて その復讐とやらへ向かう衆らは 一体誰と何のために戦っているのだろう” ってね

正直に云うと 気持は判る 気持は
でもね その例え様が大嫌いなんだな

ちょくちょく見かけるけど
” ○ × 商戦” とか あと野球とかで ”× × 軍” (1チームだけだけどね)みたいな言い方するじゃないですか
あの直ぐに ”戦” の字をあてたりするやつね
あと自分が学歴がないからか ”受験戦争” ってのも吐き気がするし、、とにかくキリがない

いっつも思うんですよね
もう少し違う現し方をしたらいいのになぁ、、、ってね

......


ここは人様の考え方や表現方法に難癖つけてもいけませんという事で
それに個人の戦闘意識を削いでもなんですので
この話はコレくらいにすることに、、、。


で ワタシはいままでとおり 怖がりながら野山や峪沢をウロウロしようかと思っています
もちろん何とも戦わずに これからも遁走のみで 待ち受けるているであろう難関を切り抜けていくつもりです

もしそんなワタシを見かけたら ”おーい ちきん野郎!” って 大きな声で脅かしてください

大丈夫です ワタシは80年代初頭から今まで そしてこれからもずっと ”ラブアンドピース” ”アップインスモーク” の精神で満たされています
ですので 仕返しに大きな岩を転げ落としたりとかは 絶対にしませんのでご心配なく

まあどうでもいい ”怖い話” ってことで きれいさっぱりお忘れください

著者 ちきん

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この記事へのコメント
避難小屋の話ね、、、
生きてる人ならどっちも我慢できるけど
曖昧な方々の訪問は嫌です

牛丼戦国時代は決着がつきそうですね
それにしてもこの独特な戦い文化 これは我国固有のモノのようなきがしますが
どうなんでしょうね?
あまり他所のことを知らないので 如何なんだかわかりませんけどね
Posted by m&M at December 09, 2014 01:43
以前、避難小屋についての話で、どっちが嫌か、
って話してて、

(先に居て)入って来られるのと(俺)、
(先客がいるか不安で)入って行くのと(M)、

って話したことのニュアンスが書かれてるのかなー、
って思って読んでたら、全然分かんねえよ!

でも世の中の、勝ち負け、戦好き?の表現の不可思議と
それに対する違和感についてはよく分かる。

まず負けて、そこから這い上がるのが好きなのかな。
それもひとつの戦後教育なのかな。

あと、強い・弱いをベースにすると、日本だとどうしても
勝ち負けにつなげちゃうよね(悪天に負けた、とか)。
敗退じゃなくて撤退でいいのにね。でも撤退でも
まだ勝ち負けの範疇だけど。あるいは単に単語不足。
Posted by cozy at December 08, 2014 21:39