釣の合間にやまをあるいていたのが
それがいつの間にか 峪:山 同じくらいの割合になってきて
そして今では なんだかやまをぶらぶらしている方が多くなってきている気がする
別に釣に飽きたというのでもナイ
暖かくなればそれなりにヤマメの居そうな薄暗い峪へと足を運ぶし
季節が進み もっと暑くなってくれば 高原の開けた峪沢で岩魚も釣る
そんな夏の岩魚釣りでは 天幕を張り 火を熾し 岩魚を焼いて食べたりもする
それときたら想うだけでもなんと愉しことかと、、、
だからソレに飽きてしまった なんて事は今のところ考えもつかないのである
そう 竹内始萬の著書ではないが ”釣りは愉し” なのである
そして釣と野宿(やま)のセットはもっと愉快痛快なのだ、、、。
セットというと
”やまあるきは犬と一緒に” というのが定番になる(私の場合)
とくに こんな中世的な雰囲気がぷんぷん臭う峠道なんかではね
それで その供の犬だけれど
たとえそれが何頭目の犬であろうと ”コイツはまだまだ若くて いまでもまるで子犬だよ” なんていつまでも思っているが
ホントは こっちのそんな勝手な思い(希望)とは裏腹に
この子らときたら ものの数日か 長くても数週間で大人になっていたりする
こちらが気付かぬふりをしている間にね
もう少し仔犬のままでいてくれよと そうお願いしたところでどうにもならない
特にこればっかりは、、
そんなこゝろの仔犬と供にやまへいくのだ
やたらとオトナびた横顔をした仔犬と連れだって
いまココでアラジンストーブにあたりながら骨を齧っていた犬と一緒にね
高畑山は倉岳山の少し西にある山で(あくまでも家から見て)
ここ最近 冬枯れ時季によく歩いている山域のやまだ
もともと無生野あたりでちょくちょくヤマメを釣っていた事もあり
この辺りの土地感にはわりと明るく それなりに判っているつもりである
どこに車を停めて どの沢を辿り どこから降りてくるか
なんてコトは目をつむっていても、、、、みたいな感じである
この日は朽ちかけたトレーラーがある沢を辿り
そろそろ花粉をまき散らすであろう杉林を抜けて そうやってお気に入りの尾根を目指した
あわよくば雪があるといいなあ なあんて淡い期待を胸に抱きながら、、、
残念ながら雪は北斜に僅かに残るだけで
サクサクといった感触を愉しむにはいたらなかった
けれども 代りにたっぷりと降り積もった落ち葉の感触が心地よく
とはいえ植林帯のソレは少しばかりガサツな感じで
広葉樹林の落ち葉の感触には全く及びもしない出来ばえだった
そんな少しだけ出来の悪い絨毯も
植林帯が終わると同時に上等なペルジアンのソレの様に変わるのだ
もっともチャイニーズはおろか
そんな上等なペルジアンの敷物の上で過ごした事なんて
実のところいち日たりともありはしないんだけどね
穴路峠
この前来た時 先へ行こうとする犬を引きずり降ろした件の峠だ
ただしアノ時もコノ時も何れもココを乗越した訳ではナイ
鞍部は目指すが滅多にそのまま向こうへ下る事はナイのが常である
要するに高い所の出来るだけ低い所を目指して
そうやって とにかく尾根に乗るのだ と言うのが定石だと言う事か、、、
縦に越えてこその峠かと思うのだが
そこはやま屋であるが故の所行、、、、なのか?
せっかく登った高いところなんだから
その先 横へ横へと行くのは仕方のないコトなのだと思って欲しい
横へ移動して一先ずは山頂を目指すのだが
その山頂が想像していたのとは違うコトも良くある事だ
そんな理想の頂きとは正反対な場所が現れた日には
とっととそこを後にしよう
そしてたら〜っとした尾根にあるフカフカの鞍部でお昼にしよう
そうすれば 直ぐにさっきのコトは忘れられるし
その日の質素な昼飯も 三倍旨く感じる事ができるだろうから
飯を食ったらまた横へ移動するのだ
少し下ってまた少し登る そうするとまた隣の頂に辿り着く
そんな繰り返しが意味も無く愉しい
そんな峠文化とやらのやま旅の最後は
打ち捨てられてたトンネルを往復してみるコト
実は目をつむっていても、、、なはずが方向を見失って
通らずともいい薄気味悪いトンネルのゲートを乗り越えて右往左往しただけ
まあそんなおまけ付きの
峠文化を感じる犬とのやま旅
で 結論は
文化は創るものではなく
後に出来あがるモノなんだと 思い知らされたそんな為になる犬の話
ではなく やま旅のはなし
7 jan,2014
つづく